先日ブログにも書きましたが、ねんざをして一週間、いろいろなことを考えました。そしてその考えはある方向に変わってきました。
それは、「感謝」に対する考え方の変化でした。
これまでの記事 生れて初めての捻挫を冷えとりで治してみる
感謝を受け身ではなく自分から探してみる
今回、ねんざをしたことで家族の優しさが身にしみました。それと同時に、自分の考え方や感謝に対する自己満足やエゴに気づきました。
普段は口に出さなくても、みんなちゃんと愛情を持ってくれているんだということに、恥ずかしながら怪我をして初めてわかったのです。
怪我をしたばかりの頃、こう思っていました。
それを気づかせるために怪我をしたんだ
なんとなく納得いきます。またよく言われていることでもあります。痛い思いはしたけれど、まわりの優しさに気づけて良かった、ケガをしたおかげだ。
でもここで疑問。
自分の体を痛めてまで気づかない自分って・・・
私の心は怪我をしたことで家族の愛情に気づいたけれど、私の体はどうなるの?
気づきのためにケガをしていかなきゃならないの?
そんなことはあってはなりません。
私の体は私のものだけど、私の心の気づきのために私の体を傷つけることは、例え自分の体でもあってはならないことなのです。
ではどうしたらいいの?
私は未熟者なのでその答えは出ていません。
でも今回のように怪我をする前に、自分の体を傷つけることで気づく前に、気づかなければいけない。
そのためには心からの感謝を忘れてはならないのかなと。
普段、決して感謝していないというわけではありません。むしろしている方だと思っています。
夜寝る前にはご先祖さまや家族に感謝の気持ちを唱えて寝ているし、生活の中で感じた感謝に関してはちゃんと伝えているつもりだったし。
でもそれじゃダメだったのでしょう。いや、ダメではないけれどまだまだ足りないというか、感謝の受け身だったというか?
してもらってこと・やってもらったことに対して感謝するのは人として当然のこと、それだけでなく、自分から感謝を探すことが必要な時期なのかもしれません。
感謝を探す。今イメージとしてあるのは、いつもそこにあるものに対して感謝をするということでしょうか。
子供が元気に学校に行ってくれることに感謝。
何事もなく無事に帰ってきてくれたことに感謝。
スイッチ一つでお風呂が沸くことに感謝。
蛇口をひねれば水が出ることに感謝。
太陽が出ていることに感謝。
日に日に緑が濃くなってくることに感謝。
何かをされたことに対しての感謝だけでなく、ともすれば見過ごしてしまうような当たり前のことに、特に感謝していかなければ。そして今の私にはそれが必要な時期なのかも。
ふと思いついただけで何の根拠もない話で申し訳ありません。でも今、湧き出てきた思いがそういうことでした。
思い付いたことなので文章にまとまりがなくて申し訳ありません。この件に関してはこれからも突き詰めて考えてみたいと思います。その後の話はまたいずれ報告できればなと思います。
とりとめのない思いを聞いてくださりありがとうございました(^-^)